ラカン的真理とトランプ的真理
Lacan Quotidien n°610 (2016年11月17日) においてアリス・ドゥラリュが指摘しているように、トランプのことばは自己検閲を逃れ、侮辱や憎悪が言表行為のレベルにとどまることなく言表のレベルにダイレクトに現れている。
The art of deal(邦訳『トランプ自伝』)のなかでトニー・シュウォーツはトランプのこうした文体を「真実味のある誇張法」(hyperbole véridique)と名づけている。
トランプじしんが「プレイボーイ」のインタビューでこう語っている。「おれはなにが売れるか、ひとがなにをほしがっているかをしってるぜ。おれはそれを真実味のある誇張法とよんでいるんだ。つみのない誇張のことさ。で、これが商売のじつに有効なテクニックなんだ」。
大統領上級顧問におさまったスティーヴン・バノンを主幹とするブライバート・ニュースもこの文体を操っている。
ドゥラリュはこの文体を「反論を許容せぬ非対話的な(non-dialectique)宣告であり、議論の余地なき全体的なひとつの真実」とパラフレーズする。
これは mi-dire としてのラカン的 vérité とは異質なものである。
「真理をはっきりと口にするのをさまたげるのは検閲ではない。真理は禁じられたものではないのであって、行間においてのべられるのが真理の構造そのものなのだ」(ジャック=アラン・ミレール)。
トランプ的言説は憎悪から身を守るための「羞恥する能力」(ミレール)をふみにじる。
同じ号のロラン・デュポンによれば、トランプの勝利とは「羞恥の死の勝利」にほかならない。
ラカンとポスト・トゥルース
Lacan quotidien 627号(2月21日付)にナタリー・ジョデルが「非理性の時代」という記事を書いている。
ジョデルは二十一世紀をサンボリックな二元性が曖昧化している時代と捉える。そこではさまざまな境界、分離、差異が消滅し、区別不可能になっている。
post-truth の時代における真と偽の境界の揺らぎはそのひとつのあらわれである。
現実なるものが不連続的なサンボリックによってではなく連続的なイマジネールによって捉えられており、客観的な事実と憶測(opinion)とがみわけられなくなっている。
スティーヴン・コルバートの十年前の造語 truthinesse(véritude)が現実を支配するにいたった。
「私はそれが本当だと思う」という命題において置かれるウェイトが「思う」から「私は」に移行しているのだ。
現代は「非理性の時代」だ。そこでは無知が徳となり、真理は個人的な信の問題に帰される。
確実性はもはや知や推論(因果性)にもとづくことがなくなる。
もろもろの néo-réalités が消費者に供され、どれを選ぶもお望み次第。
そこで権力をふるうのは「欲動」であり、「身体」に由来する決定が優位に立つ。身体/精神の二元論のニューヴァージョンだ。
思考は身体に呑み込まれ、イマジネールな知覚(percept)が概念(concept)をおしつぶす。
そこでいう知覚とは神明裁判のように身体的な試練によってためされるそれだ。感覚(éprouve)という試練にかけられたものが証拠(preuve)となるのだ。
トランプの差別的発言について質問された大統領顧問ケリーアン・コンウェイはいみじくものたまわった。「大統領の口から出る言葉ではなく心でおもっていることをみつめるべきです……」。
即自的確証(gut-checking)がほかのあらゆる知の確証様式を凌駕するにいたる。
Laure Ducan は、妻にじぶんが狂人であると信じさせる『ガス燈』の夫にトランプをたとえている(Teen Vogue の記事「ドナルド・トランプとガス燈化するアメリカ」)。
フロイトが百年前に『文化における居心地のわるさ』で述べているように、文化は欲動の満足を放棄させることによる怨恨をうみだし、それは超自我的な法(「享楽せよ」)によってもくいとめることはできない。
ことは怨恨という「情動」にかかわっている。ポスト真実はイマジネールにではなく、「欲動」すなわちレエルにこそかかわっているのだ。
「ポスト真実は存在しない<他者>の娘である」。すなわちいっさいの権威、真理の保証人への不信が支配する。
知、科学、教育の機能が否定され、啓蒙主義以前への後退が起こっている。
プーチンは知覚のたえざる撹乱状態の創出をもくろむ「非線的情報戦争」(ウラジスラフ・スルコフ)によって「民主主義的平等主義とネオリベラル的な万事の均一化のおぞましいハイブリッド」を支えるだろう。
そのなかで身を持していくための唯一の指針は「利得」。
「幻想」としてのトランプ現象
e.c.f. 発行のウェッブ・ジャーナル Lacan quotidien 626号(2月20付)によれば、トランプ現象とはアメリカの「症状」ではなく「幻想」なのであるらしい。
ホルヘ・アレマンによると、トランプは一見すると資本主義の「ネオリベラル的危機」の症状のようにみえるが、じつはそうではない。
症状とは知における穴であり、解読すべきひとつの真理を象形文字のように含む。トランプはそのかぎりではない。
幻想は症状とはちがって個人横断的であり、いかなる破綻も、いかなる真理もふくまない。それはむしろ享楽の一様態の固着であって、アメリカのさまざまな社会的・政治的停滞はそこに収斂する。
問題は資本主義の危機でも、ネオリベラリズムの危機でも、グローバリゼーションの危機でもない。いまや決定的になろうとしているのは民主主義と資本主義の両立不可能性である。
幻想の定義は両立不可能な命題を両立させることである。トランプという「幻想」は民主主義と資本主義を両立させることにやくだっているというわけだ。
トランプのマチスモは「すべてではない」という女性の論理への憎悪のあらわれであり、その実態は完膚なき脱男性化であるという……。なるほど。
フロイトの書簡リスト(1908年)
Letters of Sigmund Freud (1908)
ABREVIATIONS A : Abraham Fer : Ferenzci J : Jung
01/01/1908 (F>J 58) (F>A 14)
02/01/1908 (J>F 59)
05/01/1908 (J>F 60)
08/01/1908 (A>F 15)
09/01/1908 (F>A 16)
14/01/1908(F>J 61)(F>Binswanger 1)
15/01/1908 (A>F 17)
18~20?/01/1908 (J>F 62)
18/01/1908 (Fer>F 1)
19/01/1908 (F>A 18)
22/01/1908 (J>F 63)
25/01/1908 (F>J 64) (J>F 65)
27/01/1908 (F>J 66)
29/01/1908 (A>F 19)
30/01/1908 (F>Fer 2)
31/01/1908 (F>J 67)
10/02/1908 (Fer>F 3)
11/02/1908 (F>Fer 4)
14/02/1908 (F>J 68)
15/02/1908 (J>F 69)
16/02/1908 (F>A 20)
17/02/1908 (F>J 70)
18/02/1908 (F>J 71)
20/02/1908 (J>F 72)
23/02/1908 (J>F 73) (A>F 21)
25/02/1908 (F>J 74)
01/03/1908 (F>A 22)
03/03/1908 (J>F 75)(F>J 76)
05/03/1908 (F>J 77)
08/03/1908 (A>F 23)
09/03/1908 (F>J 78)
11/03/1908 (J>F 79)
13/03/1908 (F>J 80)(F>A 24)
18/03/1908 (Fer>F 5)
25/03/1908 (F>Fer 6)
28/03/1908 (Fer>F 7)
30/03/1908 (F>Fer 8)
04/04/1908 (A>F 25)
11/04/1908 (J>F 81)
14/04/1908 (F>J 82)
18/04/1908 (J>F 83)
19/04/1908 (F>J 84)(F>A 26)
24/04/1908 (J>F 85)
30/04/1908 (J>F 86)(A>F 27)
03/05/1908 (F>J 87)(F>A 28)(F>Zweig)
04/05/1908 (J>F 88) (F>J 89)
06/05/1908 (F>J 90)
07/05/1908 (J>F 91)
09/05/1908 (F>A 29)(Fer>F 9)
10/05/1908 (F>J 92)(F>Fer 10)
11/05/1908 (A>F 30)
13/05/1908 (Jones>F 1)
14/05/1908 (J>F 93)
15/05/1908 (F>A 31)
19/05/1908 (F>J 94)(A>F 32)
25/05/1908 (J>F 95)
27/05/1908 (A>F 33)
29/05/1908 (F>J 96)(F>A 34)
01/06/1908 (J>F 97)
07/06/1908 (F>A 35)
11/06/1908 (A>F 36)
14/06/1908 (F>A 37)
19/06/1908 (J>F 98)
21/06/1908 (F>J 99)
23/06/1908 (Fer>F 11)
26/06/1908 (J>F 100)
27/06/1908 (Jones>F 2)
28/06/1908 (F>Fer 12)
30/06/1908 (F>J 101)
03/07/1908 (Fer>F 13)
09/07/1908 (A>F 38)
11/07/1908 (F>A 39)
12/07/1908 (J>F 102)
14/07/1908 (F>Fer 14)
16/07/1908 (A>F 40)
17/07/1908 (F>A 41)(Fer>F 15)
18/07/1908 (F>J 103)
20/07/1908 (F>A 42)
23/07/1908 (A>F 43)(F>A 44)
31/07/1908 (A>F 45)
03/08/1908 (Fer>F 16)
04/08/1908 (F>Fer 17)
05/08/1908 (F>J 104)
11/08/1908 (J>F 105)
13/08/1908 (F>J 106)
21/08/1908 (J>F 107)(A>F 46)
24/08/1908 (F>A 47)
29/08/1908 (A>F 48)
09/09/1908 (J>F 108)
23/09/1908 (F>J 109)
26/09/1908 (Jones>F 3)
29/09/1908 (F>A 49)
04/10/1908 (A>F 50)
07/10/1908 (F>Fer 18)
11/11/1908 (F>A 51)
12/10/1908 (Fer>F 19)
15/10/1908 (F>J 110)
21/10/1908 (J>F 111)
27/10/1908 (F>Fer 20)
08/11/1908 (F>J 112)(Jones>F 4)
10/11/1908 (A>F 52)
11/11/1908 (J>F 113)
12/11/1908 (F>J 114)(F>A 53)
20/11/1908 (F>Jones 5)
22/11/1908 (Fer>F 21)
23/11/1908 (A>F 54)
26/11/1908 (F>Fer 22)
27/11/1908 (J>F 115)
29/11/1908 (F>J 116)(Fer>F 23)
03/12/1908 (J>F 117)
10/12/1908 (Jones>F 6)(Fer>F 24)
11/12/1908 (F>J 118)(F>Fer 25)
14/12/1908 (F>A 55)
15/12/1908 (J>F 119)(Fer>F 26)
17/12/1908 (F>J 120)
18/12/1908 (A>F 56)
21/12/1908 (J>F 121)
26/12/1908 (F>J 122)(F>A 57)
30/12/1908 (F>J 123)
フロイトの書簡リスト(1906-1907年)
Letters of Sigmund Freud (1906-1907)
フロイトの交わした書簡のリストです。手元にある書簡集を元に作成してみました。家族宛の書簡は除外します。
書簡の内容についてはブログ freudiana 2.0 (http://criticon.blog.fc2.com/)をご覧ください。
ABREVIATIONS A : Abraham E : Eitingon J: Jung R : Rank
12/01/1906 (F>Klaus)
11/04/1906 (F>J 1)
08/05/1906 (F>Schnitzler)
05/10/1906 (J>F 2)
06/10/1906 (F>J 3)
23/10/1906 (J>F 4)
27/10/1906 (F>J 5)
19/11/1906 (F> Heller)
26/11/1906 (J>F 6)
04/12/1906 (J>F 7)
06/12/1906 (F>J 8)(E>F 1)
10/12/1906 (F>E 2)
29/12/1906 (J>F 9)
30/12/1906 (F>J 10)
01/01/1907 (F>J 11)
03/01/1907 (E>F 3)
07/01/1907 (F>E 4)
08/01/1907 (J>F 12)
13/01/1907 (F>J 13)
27/01/1907 (F>E 5)
20/02/1907 (J>F 14)
21/02/1907 (F>J 15)
26/02/1907 (J>F 16)
31/03/1907 (J>F 17)
07/04/1907 (F>J 18)
11/04/1907 (J>F 19)
14/04/1907 (F>J 20)
17/04/1907 (J>F 21)
14~21?/04/1907 (F>J 22)
21/04/1907 (F>J 23)
13/05/1907 (J>F 24)
23/05/1907 (F>J 25)
24/05/1907 (J>F 26)
26/05/1907 (F>J 27)
30/05/1907 (J>F 28)
04/06/1907 (J>F 29)
06/06/1907 (F>J 30)
12/06/1907 (J>F 31)
14/06/1907 (F>J 32)
21/06/1907 (F>R)
25/06/1907 (F>A 1)
28/06/1907 (J>F 33)
01/07/1907 (F>J 34)
05/07/1907 (F>A 2)
06/07/1907 (J>F 35)
10/07/1907 (F>J 36)
26/07/1907 (A>F 3)
09/08/1907 (A>F 4)
12/08/1907 (J>F 37)
18/08/1907 (F>J 38)
19/08/1907 (J>F 39)
27/08/1907 (F>J 40)
29/08/1907 (J>F 41)
02/09/1907 (F>J 42)
04/09/1907 (J>F 43)
11/09/1907 (J>F 44)
18/09/1907 (F>E 6)
19/09/1907 (F>J 45)
22/09/1907 (F>R)
25/09/1907 (J>F 46)
01/10/1907 (J>F 47)
06/10/1907 (A>F 5)
08/10/1907 (F>A 6)
10/10/1907 (J>F 48)
13/10/1907 (A>F 7)
21/10/1907 (F>A 8)
28/10/1907 (J>F 49)
31/10/1907 (A>F 9)
02/11/1907 (J>F 50)
08/11/1907 (J>F 51)
11/11/1907 (F>R)
15/11/1907 (F>J 52)
24/11/1907 (F>J 53)(A>F 10)
26/11/1907 (F>A 11)
30/11/1907 (J>F 54)
06/12/1907 (A>F 12)
08/12/1907 (F>J 55)
16/12/1907 (J>F 56)
21/12/1907 (F>J 57) (A>F 13)
フロイトとエピジェネティクス?
たとえば、『夢解釈』につぎのように読める。
夢見ること、それは全体としてみれば、夢見る人の早期の諸事情への一片の退行である。つまり夢は、夢見る人の幼年期の再生であり、幼年期に支配的であった諸欲動の蠢きや、当時手に入れることのできた表現方法の再生ではなかろうか。この個人の幼年期の背後にまで進めば、系統発生的な幼年期、つまり人類の発展が垣間みられる。一人一人の個人は、実際には人類の発展の、偶然の生命環境に影響された縮小的な反復である。われわれは、夢の中には『一片の蒼古的人間性がはたらき続けており、そこには人はもはや直接に到達することはできない』というF・ニーチェの言葉がいかに的を得ているかを感じとることができる。そしてわれわれは、夢の分析によって人間の太古的遺産を識るに至り、人間における心的に生得的なものを認識することができるであろうと期待するようになる。夢と神経症とは、われわれがこれまで推測し得たよりもさらに多くのものを、心的な古代から引き継いでいるようであり、それゆえ精神分析は、人間性の始源のもっとも古くもっとも暗い段階を再構成しようと努める諸学問のうちにあって、高い位を要求してよいと思われる。
獲得形質の遺伝および系統発生についての仮説は、フロイト理論のアキレス腱とみなされてきた。フロイトは一生涯この仮説にこだわりつづけた。ちなみに上の引用は1919年の追記部分であるが、これはフロイトの多数の著作や書簡を通じて見つかる数ある類似の主張のうちのひとつを抜き出したものにすぎない。この信念は年を追うごとにつよくなっていったようだ。このような「ラマルク的」仮説がフロイトの生前において生物学的にはとうに否定された説であったことはいうまでもない。ギムナジウム時代からダーウィンに熱中していたフロイトが、もちろんそのことを知らないはずもない。しかし、そのことはフロイトの信念を揺るがしはしない。最晩年のフロイトはつぎのように宣言する。
われわれは長いあいだ、先祖によって体験された事柄に関する記憶痕跡の遺伝という事態は、直接的な伝達や実例による教育の影響がなくても、疑問の予知なく起こっているかのように見なしてきたと告白しなければならない。[……]確かに、われわれの意見は、後天的に獲得された性質の子孫への遺伝に関して何事をも知ろうとしない生物学の現在の見解によって、通用しにくくなっている。しかし、それにもかかわらず、生物学の発展は後天的に獲得されたものの遺伝という要因を無視しては起こりえないという見解を、われわれは、控え目に考えても認めざるをえない。(『モーセと一神教』)
「神なきユダヤ人」フロイトが科学に寄せるラディカルなまでの信はよく知られるところだ。『ある幻想の未来』末尾の有名な一節でフロイトははっきりこう述べている。
われわれの科学は幻想などではない。これに反し、科学が与えることができないものを何かほかのものが与えてくれるのではないかと信ずるようなことがあれば、それこそは幻想というべきであろう。(『ある幻想の未来』)
しかし、フロイトは科学万能主義者ではまったくなかった。科学が「最高の法廷」(『ある幻想の未来』)であると主張する一方で、フロイトは科学の「若さ」をもつねづね自覚していた。科学は永久に発展途上であり、したがってそれゆえに永久に改善可能である。それゆえ、科学が発展したあかつきには、現在の時点で証明されていないことも真理とみなされることがあり得る。たとえば、テレパシーといった現象についてのフロイトのいっけん非合理主義的ともおもえる態度もこうした信条に基づいていた。
それゆえ、フロイトが“非科学的”な仮説にこだわったことをもって、フロイトのこの仮説を癌のように見做す態度は正しくないだろう。逆に、フロイトが「非科学」な仮説になぜこれほどにこだわったのか、その理由はどこにあるのか、を探究すべきなのではないか。この仮説をフロイト理論の本質にとって些事であると片付けることが果たしてできるのであろうか? この仮説を除去したところにフロイト理論が、あるいはいやしくも精神分析そのものが成立すると考えることがはたして可能なのであろうか?
*フロイトの引用にあたっては、『フロイト全集』(岩波書店)、『フロイト著作集』(人文書院)、『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)の訳をお借りした。