ラカンとポスト・トゥルース
Lacan quotidien 627号(2月21日付)にナタリー・ジョデルが「非理性の時代」という記事を書いている。
ジョデルは二十一世紀をサンボリックな二元性が曖昧化している時代と捉える。そこではさまざまな境界、分離、差異が消滅し、区別不可能になっている。
post-truth の時代における真と偽の境界の揺らぎはそのひとつのあらわれである。
現実なるものが不連続的なサンボリックによってではなく連続的なイマジネールによって捉えられており、客観的な事実と憶測(opinion)とがみわけられなくなっている。
スティーヴン・コルバートの十年前の造語 truthinesse(véritude)が現実を支配するにいたった。
「私はそれが本当だと思う」という命題において置かれるウェイトが「思う」から「私は」に移行しているのだ。
現代は「非理性の時代」だ。そこでは無知が徳となり、真理は個人的な信の問題に帰される。
確実性はもはや知や推論(因果性)にもとづくことがなくなる。
もろもろの néo-réalités が消費者に供され、どれを選ぶもお望み次第。
そこで権力をふるうのは「欲動」であり、「身体」に由来する決定が優位に立つ。身体/精神の二元論のニューヴァージョンだ。
思考は身体に呑み込まれ、イマジネールな知覚(percept)が概念(concept)をおしつぶす。
そこでいう知覚とは神明裁判のように身体的な試練によってためされるそれだ。感覚(éprouve)という試練にかけられたものが証拠(preuve)となるのだ。
トランプの差別的発言について質問された大統領顧問ケリーアン・コンウェイはいみじくものたまわった。「大統領の口から出る言葉ではなく心でおもっていることをみつめるべきです……」。
即自的確証(gut-checking)がほかのあらゆる知の確証様式を凌駕するにいたる。
Laure Ducan は、妻にじぶんが狂人であると信じさせる『ガス燈』の夫にトランプをたとえている(Teen Vogue の記事「ドナルド・トランプとガス燈化するアメリカ」)。
フロイトが百年前に『文化における居心地のわるさ』で述べているように、文化は欲動の満足を放棄させることによる怨恨をうみだし、それは超自我的な法(「享楽せよ」)によってもくいとめることはできない。
ことは怨恨という「情動」にかかわっている。ポスト真実はイマジネールにではなく、「欲動」すなわちレエルにこそかかわっているのだ。
「ポスト真実は存在しない<他者>の娘である」。すなわちいっさいの権威、真理の保証人への不信が支配する。
知、科学、教育の機能が否定され、啓蒙主義以前への後退が起こっている。
プーチンは知覚のたえざる撹乱状態の創出をもくろむ「非線的情報戦争」(ウラジスラフ・スルコフ)によって「民主主義的平等主義とネオリベラル的な万事の均一化のおぞましいハイブリッド」を支えるだろう。
そのなかで身を持していくための唯一の指針は「利得」。