『メタサイコロジー論』熟読翫味(その1)
十川幸司訳『メタサイコロジー論』(講談社学術文庫)が刊行されました。未完の「書物」というかたちでの初の訳出であり、しかも訳者はかの十川氏。フロイトの読者であれば舌なめずりして頁をめくりたくならないわけがありません。
というわけで、十川氏のご訳業を参考にさせていただきつつ、この機会にメタサイコロジー諸論文を原語で精読してみることにしましょう。まずは巻頭に収録された『欲動と欲動の運命』の冒頭から。
原題はTRIEBE UND TRIEBSCHICKSALE。いきなり超曲者の合成語(とりあえず複数形)。Schicksal はいうまでもなくアナンケもしくはテュケーというキーワードに送付されるべき語。Schicksalszwang、Lebensschicksale といったように Trieb 以外の語と合成されている用例もみつかります。岩波書店『全集』訳は「欲動運命」と合成語っぽく訳出していますが、十川訳はあいだに「の」という助詞を補っています。以下、本文です。
Wir haben oftmal
わたしたちはたびたび
die Forderung
つぎのような要求が
vertreten
述べられるのを
gehört,
耳にしてきた
daß
すなわち
eine Wissenschaft
科学は
über klaren
明確に
und scharf
かつ厳密に
definierten
定義された
Grundbegriffen
基本概念の上に
aufgebaut sein soll.
打ち立てられなければならないと。
→フロイトに近しい建築学的比喩がいきなり使われています。『全集』でも十川訳でも中山訳(ちくま学芸文庫『自我論集』)でも採用されている「構築[される]」の原語が konstruieren ではなく aufbauen であることに念のため注意を促しておきましょう。
In Wirklichkeit
実のところは
beginnt keine Wissenschaft
いかなる科学も始めていない
mit solchen Definitionen,
そのような定義によっては。
auch die exaktesten nicht.
もっとも厳密な科学もそうではない。
→十川訳は beginnen の現在形を「始まったことはない」と過去形で訳しています。
Der richtige Anfang der wissenschaftlichen Tätigkeit
科学的活動のじっさいの始まりが
besteht vielmehr
存しているのはむしろ
in der Beschreibung von Erscheinungen,
諸現象の記述においてであり
die
それらの現象が
dann weiterhin
そのあとで
gruppiert,
分類され
angeordnet
整理され
und in Zusammenhänge
さまざまな関連のうちへと
eingetragen werden.
書き込まれるのだ。
→ richtig を人文書院版『著作集』のように「正しい」ととるのは適切ではないですね。Tätigkeit を十川訳は「作業」としていますが、原語は Arbeit ではありません。Tätigkeit はフロイトにおいてはむしろ Aktivität と同義に用いられるようです。Aktivität はたとえば sexuelle Aktivität といった文脈で用いられています。Zusammenhänge をGesammelte Weke の索引は Denkrelationen(思考連関) に送り返しています。
十川訳はたとえば『全集』訳にくらべるとかなりフロイトの文のながれに忠実です。以上に指摘した訳語の選択にかんしても、「諸論考を貫く論理とフロイトの思考過程を追うことだけに注意して」読み進める読者の妨げにはならないでしょう。(つづく)