Freud quotidien

フロイトおよび精神分析をめぐるエッセー、スローリーディング、書評、試訳などなど

ラカン派の「魔女」狩り?:反MLP(ルペン)キャンペーン続報

 

 フランス大統領選の第一回投票まで残すところ三週間。ラカン派(ECF)の反マリーヌ・ルペンMLP)キャンペーンがつづいている。

 

 ある調査によれば、「幸福度」が低い層ほどMLPを支持する傾向にある。このランキングにおいてメランションはその後塵を拝し、容易に察せられるように、エリート臭ふりまくマクロンは最下位に位置している。

 

 各種事前調査ではMLPとマクロンの得票率は伯仲しているが、MLPには長年の確固たる支持者が多く、ぽっと出のマクロンにはどっちつかずの消極的な支持者が多いことがはっきりしている。

 

 懸念される大量の棄権票はとうぜんのことMLPを利する。

 

 というわけで、端から眺めているかぎり、MLPが圧倒的なアドヴァンテージを有しているようにしかみえないのだが、多くのフランス人は最終的に共和主義者連合がポピュリスムを蹴散らすと楽観しているらしい。

 

 一部の楽観派からパラノイア扱いさえされている悲観論者ジャック=アラン・ミレールは、ここ数日、Lacan quotidien 紙上で Journal Extime と銘打った「自動筆記式」の手記をやけっぱち気味にえんえん垂れ流している始末。

 

 同紙には連日、FN(国民戦線)をいわば re-diaboliser(dé-dédiaboliser?)しようと躍起になるスローガンが踊る。

 

 アニェス・アフラロによれば、MLPは「よき母の仮面をかぶった死の欲動」である。

 

 アフラロによればEUは、第二次大戦における同胞どうしの(fraternel)殺戮の再現を防ぐべく創設された「妥協形成」であり「症状」である。

 

 MLPはその創設者たる「父」らの遺産を破壊し、欧州をふたたび死の欲動の餌食に供さんとしている。

 

 クリスティアーヌ・アルベルティの「精神分析はFN的言説の真逆である」という記事は、「無意識とは政治である」とのラカンの発言を想起しつつ、人目がシャットアウトされる投票所のカーテンの中では投票者の無意識が露になるとする。

 

 ところで、臨床が教えるところによれば、憎悪は人間のもっとも根本的な情熱である。

 

 それゆえMLPとの戦いは、なによりもこの内なる憎悪との戦いというかたちをとる。

 

 おもしろいことに、「内なる敵」とはMLPじしんがつかっているレトリックでもある。

 

 ピエール・ナヴォーによれば、「矛盾の操作のエキスパート」たるMLPは、「移民(immigration)に対抗する解決策はFNだ」と主張するいっぽうで、奇妙にも「敵は移民(migrant)ではない。……敵はわれわれのなかにいる」とも述べている。

 

 このばあいの内なる敵とは、移民の人身売買を促す「ラディカルな個人主義」ということになるらしいのだが(それゆえ敵は単数形の移民ではなく、複数ないし総称としての移民である)、この修辞を以てナヴォーはMLPは「推論を憎悪している」とその蒙昧主義を告発している。

 

 マリー=エレーヌ・ブルースはMLPの右腕(FN副党首)フロリアン・フィリポのツイートを引いてFN的修辞を分析している。

 

 くだんのツイートにいわく、「愛国者の友たちよ、あと数週間でわれわれは<システム>のバスティーユを陥落させることになるだろう。この<システム>こそフランスに対する最後の攻撃を仕掛けている張本人だ」。

 

 ちなみに「システム」とはFNのジャーゴンのひとつであるが、ブルースによれば、この語が指し示しているのは、現体制の共和的民主主義体制そのものである。

 

 FNは共和制を攻撃するためにとうの共和制をもたらしたフランス革命のイコノグラフィーを「横領」している。このように、ジャンヌ・ダルクからドゴールにいたるまでの「国民的シニフィアンの恥ずべき横領」がFN的修辞の常套手段となっている。

 

 「ルペンの娘たち[とりあえずMLPおよび姪マリオン・マレシャル=ルペンを指す]は三色旗で仕立てた演説用の晴着をまとってテレビ局や集会にお目見えする。かのじょらが国旗をまとうのは、熱に浮かされた内戦への呼びかけを隠すためである。かのじょたちは国民を誘拐し、二重の鍵でじぶんたちのあばら屋に幽閉し、その身替わりとして怪物的な分身を送り込む」。

 

 さしずめ反共映画『ボディー・スナッチャー』のイメージか?

 

 くだんのツイートに言う「友」とは「敵」を前提にした呼びかけであり、かれらのつかう「われわれ」ということばもまたつねに「あいつら」とセットになっている。

 

 FNは恐怖と憎悪のせいで réel なるもの(それは変化、新しさ、予期できないもの、不連続という相において現れる)を直視し得ないでいる。

 

 そのかぎりでFNはISとパラレルである。荒廃した郊外で「行き場をなくした若者たち」がドラッグとISに吸い寄せられているのとどうように、「フランスの静かな田園地帯」では若者のFNへの加入が増加している。

 

 ユダヤ人を殲滅したナチスが最終的にドイツ人じしんの殲滅に至ったように、他者への憎悪は自己への憎悪という帰結を招く。

 

 精神分析によって「<主人>の言説の無意識」を明るみに出すひつようがある、とブルースは結んでいる。