Freud quotidien

フロイトおよび精神分析をめぐるエッセー、スローリーディング、書評、試訳などなど

フロイトのドイツ語(その1)

 ヴァルター・ムシュクの Freud als Schriftsteller (Kindler, 1975) 以来、フロイトのドイツ語についてはすくなからぬ書が書かれている。

 

 そのうちベッテルハイム『フロイトと人間の魂』(Freud and Man’s Soul, Knopf, 1983)、マホーニ『フロイトの書き方』(Freud as a Writer, Yale University Press,1982)はさいわいなことに邦訳がある。

 

 前者はストレイチーらによるスタンダード・エディションの翻訳を批判する立場から書かれた名著。

 

 後者は日本語訳が生硬すぎてリーダブルとはお世辞にもいえないが、フロイトの症例研究についてめざましい仕事を残している著者によるもので、デリダ派のレトリカルなフロイト論をふまえており、それぞれ有益である。

 

 ひかくてきさいきんのものでは、フランスのドイツ系作家アルテュール・ゴルドシュミドによる Freud et la langue allemande (Buchet Chastel, 2006)という2巻本があるが、いかんせんフロイトを読み込んでいる形跡がなく、おまけに繰り返しが多くて芸がない。Quand Freud voit la mer と題された一巻めでは動詞の前綴りのニュアンスを駆使した視覚的で空間的な言語感覚を論じ、 二巻めの Quand Freud attend le verbe では、タイトルどおり、文末に動詞が来て文が完結するまでの揺らぎとサスペンスにみちた構文を論じている。

 

 L’écriture de Freud (PUF, 2003) の著者ジャニーヌ・アルトゥニアンはフランス語版フロイト全集(PUF)の翻訳者のひとりで、既存のアバウトきわまる仏訳と照らし合わせながらフロイトのドイツ語の含蓄に分入っている(ベッテルハイム本からの影響が伺える)。

 

 その内容の一端をみてみよう。

 

 たとえばまず挙げられるのは、

 

 Seelenapparat

   Seeleninstrument

   Kotsäule

   weibliche Geschlechtsglied

 

といった術語である。

 

 これを appareil  psychique, instrument psychique, bol fécal, organe sexuel féminin と訳しては元も子もない、と著者は言う。

 

 これらの術語に見てとるべきは、「医学と文学の並置」である。

 

 appareil d’âme, instrument d’âme, colonne d’excrément, membre sexué féminin と訳すことによってそのニュアンスがより伝わるであろう(colonne d’excrément のファリックな含意に至るまで。)

 

 Seele という語についてはジャン・アルーシュの La psychanalyse est-elle un exercice spirituel? : Réponse à Michel Foucault (E.P.E.L., 2007) が刺激的な考察を加えている。あわせて参照のほどを。

 

 (à suivre)